VS.

アート?

コスタリカで餓死する犬を展示していたらしい。
餓死する犬を、というか、
アートの名の下に、餓死する過程を展示していたらしい。


初めてそれを知ったのが今日で、
なんてことを、と憤りも嫌悪も感じたのだけれど、
作者側の意見を聞いて、言葉を失った。


ここから先は、重たい内容なので隠します。


意訳↓
『身近な犠牲は無視して、目立つ動物の死にだけ反応するなんて
 偽善もいいところじゃないか?
 この犬は元々死に掛けていた犬で、放置しても道端で死んでいたはずだ。
 そしてコスタリカにはそんな犬が何万もいる。
 道端で死んだら、誰も気にしないのに
 展示会場で死んだら反発するなんて大きな偽善じゃないのか?』


もう本当に、
完全なる反論も同意も何も言えなくて、
でも、何か言いたくて、言葉は出ないくせに、
喉に言葉なんだか感情なんだか知らないけど何かが引っかかり、
苦しくって仕方なくって言葉の代わりに涙が出た。


展示する方もする方で、見に行く方も見に行く方で、
何をどう言えばも解らないし、今回は犬だったけれど、
酷い言い方かもしれないけれど、人間だって世界中に餓えてる人はいて、
倫理的、人道的にには有り得ないけれど、
人間をこういった意味合いで展示することでも似た意味合いは持つことができて。
その場合は、今回以上に様々な反響を呼ぶわけで…。


うまく言えないけれど、
解りたくはないが、作者側の言い分も解るのが辛い。
その表現手段として、今回のような手段をとるのは同意しかねるけれど、
やっぱり言い分に関しては、何も言えなくなる。


自分さえよければいい、と言えば極論かもしれないけれど、
人間、自分に多少なりとも余裕があってこそ、周りに目を向けられるのだと思う。
向けられたところで、その範囲は自分との関わりの濃さによって変わってくるだろうし、
見慣れた光景なら、それが例え酷い光景であったとしても感覚が麻痺して気づかなくなるのも解る。
だからこそ、注視させて、現実と切り離すことによって、
それがどれだけ当たり前じゃないことかと、改めて認識する必要性もあるのも解らないでもない。


でも、だからと言って、
これをアートだとは言っちゃいけない気がする。
例え、野良で生きていて後数日の命だったとしても、
捕まえて人間に見せ付けるように、解らせるように命を奪う資格は、絶対に誰にもない。


けど、ここまで言っても、
作者側の言い分に関しては、全面否定できない自分が悔しい。




思い出したのが、戦場の写真家の話。


ずっと昔は、そんなの撮ってる間に助けろよ、と心底本気で憤ってたのだけれど、
でも、その人が写真を撮ることで、
悲惨で無意味な戦争を世界中に伝えて、終結を促すことができるかもしれない、
という可能性を考えると、何も言えなくなってしまったことがある。


何が正しくて何が間違ってるのか解らなくなるし、
そもそもそれに対して答えはあるのか、
答えることが出来る人がいるのかも解らなくなって、ただ苦しい。


犬の命も人の命も、
個としての命と世界全体レベルで見た時の命と、
同じ命には変わりないのに、違いがまったくない、
と絶対の自信を持って言い切れないのが本当に悔しい。